昭和四十一年八月二十九日    夜の御理解

信心は 玄人も素人もない、長い信心を頂いておる、又は、最近信心を頂いておるばっかりと、いうような人でも、同じこと。
とんなに信心が巧者であり、長年の信心をしておるからと、いうて、神様は容赦はないのである。。
信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃと、おっしゃるように、わが心が向いておれば、初心の人であろうが、何十年間の信心を続けておる人であろうが、同じなのである。
わが心が神に向かうておらなければ、わが心が神に向かうておらなかったら、それが信心を頂いておるという、年限が長いだけでは役に立たん。
今日は、あの敬親会でございましたが、今日は、もう ほとんど、全員の方が出席して、まあ 信心の共励をなさる。最後にま、しばらく、お話をさして頂いたんですけれども、とにかく皆さんそれぞれの家庭で、みなさんのうけもたれる信心というのは、丁度。私は、ま、今日は、あついから、あの年寄り達の、部屋でございましたから、風鈴がかかっおる。
ですから、あの風鈴をさして、私が言うのです、「風鈴のようなね、信心をなさる、例えて、言うなら、若い方達が、まぁ、この暑いのを、一生懸命、まあ、外で働いて帰ってきたとする、家ん中にもう、さわやかな、風鈴の音色が、なにかしらん、心がその疲れておろうが、どういう心が乱れておろうが、あの風鈴の音色を聞いとっただけでも、心が静まるような、清まるような、そういう雰囲気を皆さんは、 もたれるべきだ」お年寄りの方は、ま、一日、田や、畑に出る訳にもいかん、商店の第一線にたたれる訳にもいけない、そこで、心を神様にむかい続けておる、うちむかい、続けておる、自分の心の中に、なんとはなしに、さわやかな心というものが、その雰囲気をつくる。
それに、もう年寄りが、なんとか、かんとか、若いものにさしで口をしたり、いらいらしたり、それこそブリキ金をたたくような声を出したり、それではね、その おかげにならん、そういう一つうけもちの場というものを、まあ私共うけたまわっておるんだと。果たして今日は、よい風鈴としての値打ちの信心ができただろうかと、いう風に、まあ 反省し、又そこをおかげ頂いていかなければ、いけませんね。
おばあさんが、おぢいさんが、唯もう、ほんとに、子供達のはたらきを信じきる、神様を信じきる、そして、お家を守って下さっておる。祈っておって下さるんだと、いうだけで、若い者の気持ちが、なごむような雰囲気を頂きたいと、いうふうに、まあ 話したんですけれども、それとても、これは年寄り、だけのことじゃありません、わが心がむいとかなければ、そういうなごんだ心というものは、生まれてこない。
ですから、もう信心は、玄人も、もう初心の者もないのです、問題は自分の心が神様にむこうて、おるかどうか、生神金光大神様と、こう、むこうた心で私共が日々の御用を、さして、もらうということ、そこから、おかげが頂けるのだと、いうふうに、お話したんですけれどもね、なかなか、それを御理解頂きよってから、ある人がこうやってから、ある あばさんの、かげに、かくれよんなさいますもん。あたしが顔ば見てから、もう先生私がそれを反対でございます。この頃は、もういらいらして、もやもやしてから、もう嫁御ん顔見ると、腹ん立つ、もう息子が帰ってくると、どうか言おうごたる。というような、最近日々でしたが、最近はあの嫁御んおかげで、ほんとに、私がたすかった。
もう それこそ嫁御さんがえらい、(       )ですけれども、もうその日は、その嫁さんね、もう、いよいよ、おまえが、おっちゃ、とても、お母さんがあげん、いらいら さっしゃるなら、いかんて、だから、お前一番下ん子供連れてから、里に帰れち言うてから、主人が申しますからと、いうてから、ま、行きがけに参ってきた、途中ですから、それで私がお願いさして頂いとくから、今日は帰りなさい。おかげ頂いとるかん分らんじゃないの、と言うてから、その まあ 帰したんです。
そのことを、その言われるんですよね、もう私こそ、その、トタンの音がガチャガチャ、いわせるような、その内容で、嫁に接したり、息子に接したり、孫達にまで、それを接して、おったと、いうこと。
それを わたしゃ、嫁御んおかげで、あの こんだとり直すことができたと、言うて、その言うて、おられますけれどもね、それが そんなでした、もう いよいよいかん、だから もう主人の方が、いっときばっかり、おまや里に帰っといてくれと、いうごつ、なったくらいに、まあ そのいらいら、しておった、これでは、 おかげは受けられない。そん時その翌日、その 嫁さん出てきてからのお礼ですもん、帰らして頂いた、したら、おばあちゃんは、縁先で草取りござった、もう、ちょうど、夕食の準備もでけたけん、「おばあちゃん、ごはんにして下さい」「どうぞ、あなた方からお先におあがり下さいち」その それこそ、もう なにかえらい人にばし言うごとして、言わっしゃつた、もう がっかりしてから、まあだ、おかげ頂き、きっとらじゃったばいのと思うてから、子供たちに、主人達に、ご飯ば ついでやよった、そしたら、ごそごそ、手どん洗ちから、上って、きてから、嫁ごさんの名前ば言うてから、「 ほんとに、あたしが、ごたる年寄りがおるけん、あんたも、やりにくかろうち」言うちから、涙をぼろぼろ流さっしゃつた。「もうほんとに、最近のあたしゃ、もう どうかなってしもとる、ほんとに、こらえちくれんの」ち言うちから、その頭下げらっしゃるけん、「 もう おばあちゃん、そげなだんじゃないですよ」ち言うてから、その嫁御が又涙流して言うた、もう おばあちゃん、あたしゃ、ここにきた時から、もう ほんとに こげなこつ、なるか、ならんか、そりゃ、なんなさらんほうがよいばってん、もう おばあちゃんが、どげん、(      )なったっちゃ、私がみますよ、私が大事にしますよ、又大事にすると、あたしゃ、今でん思とるて、もう ほんとに、あんたが、そげん思ちくれるとるにと、いうて、泣いてから、その(      )された、それがもう、出ていかんなり、ですから、信心がなかったら、まあ やっぱり、帰っとりゃ、問題がやっぱり、おこっとるですよね。
帰らして頂いてから、もう、そげな風じゃつた、最近はもう それこそ、あなた、こなたち、いうごたる、そのことばを使わっしゃる、「ご飯あがって下さい」「どうぞ、あなた方から、先にあがよって下さい」ち いうごたる風に言いなさるそうです、もう、とりつくしまがなか、それが、そう言わさっしゃつたばってん、その草を取り、取り、じっと考えつきなさったつでしょう。それで手を洗ち、上ってきてから、そうやって、あたしがごたる、年寄りがおるけん、ほんとに、あんたどんが、やりにっかろうち。
ほんとにooさん こらえちくれんのち、嫁さんの名前を言うてから、その断わりを言われたと、いうことです。
以来もうほんとに、又 その おばあちゃんも、敬親会に入られる位ですから、もう ほんとに、段々信心がでけて、もう、最近では、もう「どうでも、こうでもお神様を、うちに、おまつり、さして、頂こじゃないの」というて、その まあ、話し合う割れる位に、信心が進んでおられるのに、どうしたというか、やっぱ、そこに、一つのあれがあったんです。
東京から、あの娘の主人に、なるのが、やってきて ですね、もう その例えば、もう ほんとに、どうにも、こうにも、でけなかったなかに、おばあちゃんは、その娘達の夫婦のことを、お取り次ぎを頂いてですね、又 椛目の金光様にお願いをしてくれと言うけん、お願いをさして頂いとるうちに、もう 大変、まあ いうなら、成功の糸口がみっかって、現在では大変おかげを頂いているけれども、その娘さん達夫婦が、こちらに、ちょつと、かかって、きとるような、時に、そのおばあちゃんが、非常に、やっぱ、つろう、あたっちゃらしいです。
だから、ほんなもう、帰る日になってですね、娘さんが、その娘さん夫婦で、言わっしゃった、今度丁度、一カ月との位。帰っちやったかの、二カ月位帰って、きちゃつた。そして、ほんな帰る日になってからです、こんだ、ばあちゃん、あたしゃ、仇討ち、帰ってきたつばのち、言わっしゃつたげな、娘さんの、もう それこそ、今までのその娘に対する、婿に対するその思いがですね、その婿までが、ほんなこつ、そげんですばのち、言わんばかりの、ごたる顔しとった。
それが、もう いよいよ腹ん立って、腹ん立って、たまらんとです。ほんとに、最後にいっぺんだん、椛目にお礼に出るち言うじろうかと、思や、それも言わずに、それが、それが、もう自分がもともとの、そりゃ元は悪かったらしいですよ、そりゃ もう ほんとに ひどかったらしいです。けれども、それが、おかげをうけましてですね、椛目に嫁御んおかげで、おみちびきを頂いて、お参りをして、こられるように、なってから、おかげ頂いとった。それが、最近はもう、ひっくり返ってしもうて、もう どこに、もって、いきようもない、その もやもやば、嫁御にあたり、息子にあたり、孫達にまであたりちらかしよる。その、おぢいちゃんというのが、あの最近、病院に入院しとりますが、もう とうとう、あたりちらかしようのなかけん、病院にまでも、行ってから、じいちゃんば、おごって、きなさるという風な状態に、なっとられたんです。それが又最近、そな時もう そりゃ、もう ほんとに、人間の心の状態が変わるとですね。もう人相まで、もう変って、しもちゃつたち、いう位にあった。それが又最近そういうようなね、いわば、嫁御の信心でおかげを、うけておられる。私共の心というものが、ほんとに、なごむどころか、風鈴どころか、かえって、帰ってくりゃ、じゃん じゃん、がんがん、いわせちから、カネやら、そのブリキをたたきよるような、音を、たてるような、ことではね。外に出て働いておる者、又家ん中がおかげの頂けれる雰囲気が生まれてくる筈がないのですから。
然もそれはですね、決して長く信心がでけとらなければ、ならんと、いうことではない。
わが心が神にむかうのおと、おっしゃるから、自分の心が神様に、むこうておけば、そういう雰囲気が段々頂けてくるようになるのです。
何十年の信心を頂いて、おってもです、その心をとり失うたら、もあ信心の無いものも、同じなんですよね。どうぞ。